「なぜ父が8400人の台湾少年工が暮らす寄宿舎の舎監になったのか」――神奈川県大和市に住む元同市議の石川公弘さん(88)は長年、疑問に思っていたが、今年6月、当時を知る関係者の親族に会い、理由を教えてもらったという。そこには小学校校長だった父、明雄さん(1893~1989年)が関東大震災時にとった行動があった。
台湾少年工とは、第二次世界大戦時に労働力不足を補うため日本海軍の募集に応じて日本に渡った13歳~19歳の工員のこと。寄宿舎に住み、「高座海軍工廠(こうしょう)」(工廠は工場の意)などで働いた。同工場は現在の大和市、座間市にまたがる広大な敷地にあり、寄宿舎は大和市に木造2階建ての建物が40棟建てられた。4人の舎監が10棟ずつ担当し、明雄さんは4人のうち1人だった。工場では局地戦闘機「雷電」などの製造にあたった。同工場の労働者の8割は台湾少年工だったといわれる。やがて製造技術的にも台湾少年工の評価が高くなり、同工場から三菱重工名古屋航空機製作所など各地の海軍関連工場に派遣されていった。
公弘さんの父、明雄さんは神奈川師範(現・横浜国大)を出て、県内の小学校(当時は尋常小学校)の教諭、校長をしていた。1942(昭和17)年、藤沢市の藤沢第三小(現・鵠沼小)の校長をしていた時に、高座海軍工場の実務責任者だった海軍大佐が学校を訪ねて来て、台湾少年工寄宿舎の舎監にスカウトされた。50歳だった。それまで海軍との接点はまったくなかった。小学生だった公弘さんは「(安定した)校長の職を捨てて、海軍なんて」と疑問で仕方がなかった。
それから80年近く、今年6月、高座海軍工場に関わった海軍中尉の子息に出会い、同工場の人事の事情を「父から聞いた」として教えてもらい、88歳になって初めて父が選ばれた理由を知った。
石川公弘さんによると、1923(大正12)年、関東大震災が起こった直後、朝鮮人が井戸に毒を入れに来るというデマが飛び交い、いわゆる朝鮮人虐殺事件が各地で起こった。明雄さんは当時、30歳で、現在の相模原市緑区の小学校で校長を務めていた。明雄さんの住む地区でもデマが飛び交い、街道には朝鮮人を待ち構える住民の男たちがこん棒や日本刀を持って集結した。それを知った明雄さんは自転車で走り回り、「朝鮮人が井戸に毒を入れるなんてあり得ない」と暴徒化しつつあった男たちを説得、解散させた。明雄さんは地区で校長として顔が知られていたので、男たちは「校長先生の言うことだから」と応じたらしい。悲劇を未然に防いだ明雄さんの行動は、教え子を中心に話が広まっていった。
それから20年近く、労働力不足を補うため、台湾で少年工を募集することになった。当時の台湾総督は海軍出身の長谷川清大将だった。長谷川総督は「内台一如」(内は内地、すなわち日本。日本と台湾は一つで分け隔てがないの意)をスローガンに、日台の民族差別はしない、工員で日本に行っても技師で台湾に戻す(働きながら学べる)-などの条件を付けた。海軍側も応じ、「内台一如」という考えの下で人材が集められた。関東大震災での行動から、明雄さんもその一人としてスカウトされた。
その前、戦争が勃発した1941(昭和16)年12月の当時、明雄さん一家の親類が三井物産の社員として米国に駐在していた。それが1942(昭和17)年8月に帰って来た。身内だけになった時、こっそりと同年6月にミッドウエーで日本艦隊が壊滅的な敗北を喫したことを教えてくれ、「戦争は負ける」と断じた。小学2年だった公弘さんは聞いて驚いたという。
「その父が海軍の仕事を受けた。負け戦を予言されたのに…」、公弘さんには理解できなかった。しかし、内台一如という事情を聞いて、「逃げるわけにはいかなかったのだろう」と合点がいった。
石川家は1943(昭和18)年、大和市の少年工寄宿舎の敷地にあった舎監住宅に、両親と子ども4人で引っ越した。公弘さんはそこから学校に通った。
民族差別をするなということだったが、工場内では台湾人に対する差別やいじめは多々あったといわれる。李雪峰という少年工は、年上の日本人工員の理不尽な扱いにたえきれず、殴ってしまった。(殴り掛かってきたので、武術の心得がある李さんが払って、手を突きだしたら相手のみぞおちに入った、だけという説もある)。現場を見ていた海軍中尉が日本人側に非があると認め、李さんを明雄さんに預けた。明雄さんは李さんを褒め、専任寮長に抜擢したという。
1945(昭和20)年8月の終戦で、工場にはきちんとした管理体制がなくなり、台湾少年工は取り残されて混乱に陥った。明雄さんらが説得して、李さんを中心に自治組織が結成された。自分たちで管理を行い、台湾に帰る船を手配し、翌年2月までには台湾に戻った(一部は日本に残った)。台湾少年工の身分は全員が海軍軍属だったので、自治組織が自ら交渉して退職金をもらった(退職金は千円だったの説があるが、台湾に帰ったらハイパーインフレでわずかな金額になったらしい)。また、終戦のほぼ2週間前、台湾少年工の6人が米軍機の爆撃で死亡したのをはじめ、病気などで約60人が亡くなったといわれる。働きながら学べるという約束は反故になってしまったが、それでも400人ほどが旧制工業中学校卒の資格を得た。
一方、台湾は国民党の一党独裁、戒厳令の時代になり、自由が制限され、日本との交流が難しくなった。「日本へはお礼の手紙すら出せなくなった」と話す元少年工もいた。台湾に帰った元少年工と連絡は途絶え、公弘さんもいつしか台湾少年工のことを忘れていた。明雄さんは1989(平成元)年に94歳で亡くなった。
明雄さんが亡くなって3年後の1992(平成4)年、元少年工のグループ30数人が「大和は第二の故郷」といって大和市役所を訪ねてきた。台湾で戒厳令が1987年に解除され民主化が進み、日本にも自由に行けるようになったのだ。
その前、明雄さんは69歳で大和市議になった。公弘さんも父の跡を継ぎ32歳で市議に初当選、7期務め、グループが来た当時は市議会議長の任にあった。市長がたまたま不在だったため、助役と一緒にグループを迎えた。と言っても、何の目的の訪問かは知らず、面会前の心構えはなかった。いざ面会し、「台湾少年工の寄宿舎にいた」という言葉を聞いて、記憶がよみがえった。公弘さんが「父が舎監をしていた」と話すと、グループから驚きとともに「私、ランドセルを背負ったあなたを覚えている」というの声が出た。それをきっかけに台湾との交流を志すようになった。「高座日台交流の会」の会長に就いた。元台湾少年工とつきあっていると、「熱を出して寝込んでいるところを明雄さんが自分の子どものように一晩中看病してくれた」など、父への感謝を口にする人が多数現れた。
台湾少年工の寄宿舎は戦後、取り壊され、畑地になり、やがて住宅地になった。今は往時の面影はない。ただ、風呂場、炊事場は床にコンクリがうたれていたため、畑地にならず、空き地として残っていた。市議としての公弘さんらの尽力で、空き地が「高座記念公園 (高座海軍工廠 寄宿舎跡地)」として整備されている。
石川公弘さんは疑問が解け、「台湾の皆さんは恩義に厚い。『恩は石に刻め恨みは水に流せ』を実践していることがよくわかった。これからも交流を進めていきたい。わだかまりなく台湾の皆さんと付き合えるのはやはり父のおかげ、死んだ父に感謝したい」などと言っている。